越前魔太郎、新しい才能

越前魔太郎『魔界探偵 冥王星O ウォーキングのW』を読み終えました。
先日読んだ『V』(id:s2_it:20100729)との同時発売だから、これで漸く、スタート地点に立ったことになります。


魔界探偵冥王星O―ウォーキングのW (電撃文庫)

魔界探偵冥王星O―ウォーキングのW (電撃文庫)



作家が本当に売らなければならない唯一のものが文体だ。
――ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』


越前魔太郎、これまでに無いタイプの、新しい才能である。
シリーズというと、ある程度は「お定まりのプロット」になる。そのお定まりの中で、どのような人物が出るのか、どのようなどんでん返しがあるのか、毎回異なるそれを作家は提供し、読者は期待して楽しむ。
だがその、「どのような」の中に、文体まで含めてしまった作家は、これまでにいたであろうか。


四月に同時発売された「ヴァイオリンのV」と「ウォーキングのW」。
二冊は別々のレーベルから発売された。
「V」は大人、それも主に男性向けのレーベルである講談社ノベルスから、「W」は十代向けの電撃文庫から。


「V」はプロローグ的な物語だが、元は人間で骨だけを抜かれてしまった肉と内臓の怪物に対抗する、理知的な売れないライターの話。冷徹な視点を持った語り手を一人称で描き上げる力は本物である。
翻って「W」の方は、小学生の男子が主人公、友情を核にしたジュブナイル風の物語で、自称内での母の呼び方が「お母さん」であったりちょっとした感想をそのまま地の分に書いたり、極端に改行が多いなど、いかにもライトノベルの書き方である。
それぞれに面白い小説ではあるのだが何より素晴らしいのは、こういった全く異なる文体を持つ作品を同時に生み出す越前魔太郎その人だ。


この調子で続刊(隔月で二冊ずつ刊行される)も描かれるようだと、文芸における文体という物の重要性が極めて低下してしまう。
今や、全ての作家は、己が心血を注ぎ込んでいる文体という物にすら冷徹な目を向け、場合によっては拘泥するのをやめなくてはならないのかも知れない、【冥王星O】のように……。


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……なーんてことを書いていたら、僕も映画『NECK』に出られるかしら。