作り手の感覚

どんだけ読んでどんだけ触れていても、結局作り手の感覚には追い付かないもの。
そんなことが実感された小説版『蟻帝伝説クリスタニア』(白井英)でした。

神獣が治め、周期が巡り続けてきたクリスタニアにあって、その始まりの時からずっと神獣を拒み、神々が、肉体を再び獲得して現れるのを待っている人達、古の民。
その中の一人の臆病な少年が主人公の小説です。
以下ダブルスタンダードによる感想。ううう……。申し訳無いです。


クリスタニアは色々な立場の人間がいて、それぞれ考え方が違って、どうしてもぶつからなければならなかったり、何とか和解できたり、それが一つの大きなドラマ要因になっているサーガ達です。


例えば、神獣に依存し切っている人達に自分の意志で生きてほしい、との思いから出発して、一つの帝国を率いて侵略戦争を仕掛けるほどのレードン。
レードンの行いが神獣の意志に反していると疑い、反乱を企てる蟻人(ミュルミドン)のミロン。
今や部外者だった漂流民と神獣の民の間の溝を埋め、和を結ぼうとするフィランヌ達。
そういった意志と意志との交錯する織物の中、一人臆病者のカルーア。自分の村の村長に危険が及んで、しかもたまたま立ち寄っただけの無関係な人達が助けに行ってくれると言うのに、それに同行する勇気すら持っていません。
明らかにその志からして他の登場人物に劣るカルーアが、でもこの小説の主人公です。


自然、擦れ違う想い、そして勇気ある決断と犠牲の果て分かり合える人達、といったところには焦点が当たらず、カルーア個人の極端なまでの勇気の無さ、他人への依存、そしてそれを克服してようやく自分の意志に従うこと、それらを中心に描かれることになります。
だから、「何で他の人に比べてこんなに小さいことが、中心なんだ?」との疑念が拭えず半分以上読んでいました。
結局読み終わってもレードン達よりずっと、卑近なテーマになっていて、そこのところの不満は無くなっていません。小説の主人公は読者に身近でなければいけない、という原則ぶんを差し引いたとしても。


でも、これを(正直に言うとあまり信用していなかった)クリスタニアチームの一人、白井英が書いたと思うと、小説としての出来は一旦後ろに下がって、その、クリスタニアであることの意味が前に出て来ました。あっ面白いんじゃんこれ、と。
この小説の登場人物は殆どが、外からやって来てクリスタニアを動かす大きな動力源となっている新しき民、今までとは異なる新しい生き方を模索している神獣の民、人間とは幾分違った感覚を持つエルフとドワーフです。
その中で唯一、太古の昔から神獣を拒み、神々が失った肉体を取り戻す日を心待ちにしている民族である「古の民」から出張って来ているのが、主人公のカルーアなのです。
みんな時代に翻弄され強くあらねばならない世の中、でもカルーアに象徴される古の民だけは、それより一段劣った個人のぐじぐじしたことで悩んでいる、これがクリスタニアにおける古の民の立ち位置なんだなあと、実感できました。
今までは古の民の存在意義がさっぱり分からなかったんですが、そこのところをきちんと捕らえてテーマとして小説にしてくれた、白井英はさすが作り手の側にいるんだな。


ところで今までクリスタニアは面白いと主張してきましたが、実はこの『蟻帝伝説クリスタニア』を読んだのは今日が初めて。
そしてそういう本がまだ他にも……。